2000年9月に国際肺癌学会「禁煙」東京宣言が以下の通り発表されました.肺癌は世界で癌死の最も高いものである.男女共にその発癌発病率の急増は警鐘を鳴らす状況にある.肺癌の9割は喫煙及び受動喫煙によるものであり,そのため予防可能なものといえる.喫煙はその他の多くの癌,循環器系疾患及び慢性肺疾患の主な原因ともなる.子供の喫煙によるニコチン中毒は世界的な流行病であり,速やかな対応を必要とする.禁煙は肺癌発生の抑止と,高騰する医療費の抑制を計る最良の方法であり,ひいては世界人類の公衆衛生の向上と豊かな生活を成就することができる.これらの目的を達成するために国際肺癌学会は下記の事項を宣言する.

1.政府に対し,1)子供の喫煙によるニコチン中毒を防止するための新しい方法の開発,2)分煙などによる非喫煙者の保護のための公共施設・交通機関内での禁煙,3)政府広報・公共広告を通して,喫煙の害・禁煙の啓蒙,4)禁煙を目的としたタバコ税の増額,5)喫煙者に関わる医療費の一部自己負担制の新設,6)初等中等教育での禁煙教育を行うための法令整備,行政指導,予算措置を要望する,
2.医学会や医療機関に対し,禁煙運動と禁煙教育への協力支援を依頼する,
3.医療関係者に対し,禁煙のためのカウンセリング技術の習得を要請する,
4.産業界・メディアに対し,タバコの広告宣伝及びセールス活動を廃止するように要請する,
5.国際肺癌学会は,肺癌に関する資料を公共のために提供する,というものでした.

これらの方策はいずれも重要ですが,すべてが効果が高いわけではありません.

喫煙者にタバコの害を教育し,禁煙を啓蒙普及することは有効でしょうか?私は多くを期待できないと考えます.喫煙はニコチン中毒というりっぱな薬物中毒です.依存性があるので,麻薬中毒と同様に離脱するのは困難です.多くの喫煙者が禁煙に失敗してしまう,最近発売されたニコチン含有テープによる離脱療法が有効であることが何よりの証拠です.

我々日本人が欧米人に比べ公共道徳心の薄い民族であることも,禁煙をすすめる上で大きな障害になっています.日本では公共の場での喫煙が野放しです.駅では喫煙場所でない所でも平気でタバコを吸う人がいます.歩きながら喫煙をする人,自動車の中から道路にタバコの吸い殻を捨てる人もあとを断ちません.ホテルや公共施設のロビーは非喫煙者も共同利用する場所なのに灰皿が平然と置かれています.しかも,日本人は誤った社会習慣を海外に無意識のうちに持ち出しています.海外旅行をすれば気付くことですが,空港でもレストランでも紫煙の下に日本人がいます.

イギリスでは,たとえロンドンのような大都会でも,信号機のない横断歩道を人が歩いていれば車は止まってくれます.運転手もいったん自動車を降りてしまえば歩行者として横断歩道を渡ることがあるから,止まってくれるのです.日本ではどうでしょうか?自動車は止まってはくれません.欧米人には日本人にはない高い公共道徳心があります.この公共道徳心は権利と義務の概念を十分に理解することから生まれますが,日本人にはこのような理解はありません.さりとて,新渡戸稲造の「武士道」やルース・ベネディクトの「菊と刀」に記されているような美徳の精神に期待することも困難です.高度成長期とバブル期を経て,日本人の精神はすさんだものになり,体面を重んずる心,他人様に迷惑をかけずに暮らすという規範を失ってしまいました.

自分の健康を害する行為をして病気になっても,それはあくまで個人の責任です.フグの肝を食べて死んでも,それは食べた人の責任です.非喫煙者の疾病罹患リスクを1とした場合,喫煙者では肺がんは4.5倍,喉頭がんは32.5倍,食道がんは2.2倍,虚血性心疾患は1.7倍,肺気腫は2.2倍になります.もし,喫煙者だけで社会が構成されていれば,喫煙に伴う社会的損失は喫煙者の中で完結します.しかし,世の中には喫煙者よりも多数の非喫煙者が存在します.喫煙は自分の健康を害するだけなく,社会全体に多大な迷惑を及ぼします.
夫が喫煙者の場合,受動喫煙による妻の肺がんの罹患リスクは1.9倍になります.親の喫煙により子の気管支喘息の有病率が1.8-2.8倍になり,母体の喫煙により児の子宮内発育不全が生じるなど,次世代にも悪影響を及ぼします.これらの健康被害が起きた場合の治療は日本では公的医療保険で賄われます.喫煙者も非喫煙者も納める医療保険料には差がありません.喫煙者は社会を支える基本のひとつである公的医療保険を浪費しています.このほか,喫煙により建物の壁が汚れる,火事の危険が高まるなど,様々な悪さをしています.これらを含めると,喫煙が社会全体に及ぼす損失は年間3兆円になると推測されています.日本人喫煙者のほとんどは無意識に,一部は自覚しながらも知らないふりをして,社会に迷惑を掛け続けています.

喫煙が文化だ,と言う時代は終わりました.文化というのは人々の暮らしを豊かにするものです.喫煙は害の方が大きいことは明らかです.かつて中国大陸ではアヘンを吸うことが広まっていました.毒薬を売り付けられた中国はたまらずにアヘン戦争に突入しましたが,敗戦し香港を割譲させられました.他国に不当な仕打ちをされて,それを撥ね除ける力があるか否かは,民の叡智と国の力によります.

アメリカ合衆国内でのヒステリックなまでの嫌煙により,タバコ会社は自国では売れない,売れても裁判で負けて多額な賠償金を支払わねばならないので,日本を含む外国,とりわけ中国,東南アジアにせっせと輸出しています.欧米ではテレビで禁煙キャンペーンのCMを見ることはあっても,タバコのCMを見ることはありません.ところが,アメリカ合衆国のタバコ会社は日本でテレビ広告を流しています.他国に害があると分かっているものを売り付ける,これは武器輸出と全く同じです.このような節操のない行為は非難されるべきです.いくら経済的に豊かでも諸外国から尊敬を受けません.

日本ではタバコは1箱260円程度です.この金額は妥当なのでしょうか?欧米先進国ではどこでも日本より高額です.オーストラリアでは600円,デンマークでは800円くらいです.日本でもタバコには当然課税されていますが,欧米先進国では遥かに高い税率が当たり前です.日本の高物価を勘案すると1箱1000円がタバコの値段として妥当と思います.

1000円という金額は,むやみには買うことはできないが買えないわけではない,タバコに対して知識のない愚かな人間がむやみに購入できない,中学生や高校生がおいそれと購入できない,自動販売機で買うには気が引ける,社会に迷惑をかけている分をタバコ税として支払う金額として,ちょうど良いと思います.

禁煙教育や啓蒙普及は確かに必要ですが,これだけでは公共の場での無神経な喫煙が姿を消したり,年間3兆円にも達する社会経済的損失が減少したり,日本人の喫煙率が欧米並みに下がることはないと思います.私達は善かれ悪しかれ欧米流の豊かさを求めて生活して来ました.タバコの値段も欧米のスタンダードに合わせて,1箱1000円にしましょう.
(2000年10月20日記)
(2001年5月,鳥取県西部医師会報NO.109に掲載)